로그인運ばれてきたラーメンを写真に収め、「SAまで来たよ」と母さんにラインを送る。 すぐに返ってきたスタンプを確認してから、スマホを伏せ、満を持して箸を取った――その、まさに一口目の直前だった。「南緒」「うん?」 隣でコーヒーを飲んでいた佐伯が、静かに俺を見る。 いつもと違う、真面目な顔だった。「パスポート、作っておけよ」「……なんで?」「妻になるんじゃないの?」 あまりにも平然と投げ込まれた爆弾に、思考が一瞬でフリーズする。 湯気を上げるラーメンを前に、俺は間抜けな顔のまま固まった。「……え、なに?」「“いつかしてくれますよねー?”って言ったじゃん。この前、バ先で」 一拍遅れて、意味が繋がる。 “お前を妻にした覚えも、婚姻届を受理した記憶も皆無なんだけど” “――でも、いつかしてくれるんですよねぇ~?” 繋がった瞬間、耳の奥がかっと熱くなった。「な、なに言ってんの急に!」 声を潜めて抗議しても、佐伯はまるで気にした様子がない。 視線を前に戻し、飲み干したカップの容器をゴミ箱に捨てる。 その動作は、驚くほどいつも通りで淡々としていた。「南緒は観光ビザで渡航して、フランスで結婚して。現地で配偶者ビザに切り替えるのが一番有りだと思う」「いや、待て待て待て! 急すぎるって!日本語以外喋れないから! 海外とか無理だって!」 俺のパニックなど意に介さず、佐伯は小さく息を吐くと、何でもないことのように言った。「俺が海外赴任すれば年収1200万くらいになるし。そしたら南緒は一生働かなくていい。十年も住めば、よちよち歩きの奴らと同じくらいには喋れるようになるだろ」「はぁ!? てか、なに!? お前どこに就職するつもりなの!?」「JETRO(ジェトロ)。日本貿易振興機構」「め、めっちゃエリートしか行けないとこじゃん! なんで絶対就職できる前提なの!? そもそも!」「え? 俺が入れないわけねーじゃん」 ……ああ、はいはい、そうですか。 いや、でも。 いくら俺がバカでも、大学卒業・即結婚・海外移住コースは、さすがに心の準備が追いつかない。「お、俺の将来の夢とか、聞かないわけ?!」「え、あんの? 俺と結婚する以外に」「あるに決まってるじゃん!」「なら一回社畜になれば。仕事に疲れたら、俺が嫁にもらってあげる」「
佐伯は、感情のないまま育ったわけじゃない。 ただ、「出さないで」生きるしかなかっただけだ。 出せない環境に、ずっと閉じ込められていただけだ。「……南緒、」 呼ばれた声は、どこか不安げで、縋るみたいだった。 佐伯は俺の服の裾をそっと捲り上げる。 乱暴さは一切なく、確かめるような指先の動きのまま、胸元からお腹へと静かに唇を寄せてきた。 その仕草に、欲情よりも切実さが滲んでいるのが分かる。 ただ肌に触れて、そこに俺かがいることを実感したい――そんな風に見えた。 温度が移るたび、呼吸が重なり、心臓の音が近づく。 これはセックスじゃない、と自然に理解できた。 佐伯は、安心を探しているだけだ。「ん、澄人……」 思わず声が漏れそうになって、口元を手の甲で押さえる。 佐伯は、唇を寄せ、匂いを確かめるみたいに小さく息を吸い、時折、乳首にそっと舌を這わせた。 その動きは拙くて、切なくて、本当に小さな子どもが甘えているみたいだった。 でも、不思議と嫌だとは思わなかった。 それで佐伯の胸の奥が、少しでも満たされるなら――この身体で、今はそれに応えたいと思った。「南緒、好き。……離したくない。ずっと離れないで、俺の側に居て」 耳元で囁かれた言葉は、いつもの強さや切迫感とは違っていた。 相手を確かめるために繰り返す、幼い約束の言葉みたいで。 甘く攻めたてる感じはなく、親に「だいすき」と言って、ちゃんと受け止めてもらえるかを待っているように思えた。 俺は答えの代わりに、佐伯の髪をそっと撫でる。 指の腹で、ゆっくり、何度も。 ここにいる、と伝えるみたいに。 そのうち佐伯は、すっかり安心しきった顔で、俺の胸に頬を寄せたまま眠ってしまった。 俺は起こさないように、そっと布団を掛け直す。 布団の中で抱きしめ直して、冷たい爪先に俺の足を絡めた。 それだけで十分に幸せで、もう何もいらなかった。 佐伯が、こうして側に居てくれるなら。*** 翌朝。俺たちは玄関先で母さんたちに見送られ、車に乗り込んだ。「佐伯くん、これ……少しだけど、車代。ガソリン代にしてちょうだい」 母さんはそう言って、小さな封筒を差し出した。「でも」 一度は断ろうとする佐伯の言葉を、母さんは穏やかに、けれど有無を言わせない調子で遮る。「私た
佐伯は俺の方を向かないまま。 淡々と、事実だけを並べるように、続きを打ち明けた。「そのあと親父の仕事の都合で日本に来たけど、高校の時点で父親とはほぼ絶縁してる。……あのマンションで一人暮らし始めたのも、高校入ってすぐ。二十歳まで生活費だけ振り込まれて、一切喋ってない。今、どこに居るかも知らない」 これまで断片的に見えていた佐伯の影が、はっきりとした輪郭を持って思い出された。 “俺、こういうの作って貰ったこと ない” “誕生日、祝ってもらったことない 一度も” “ごめん もっと安心させて” “俺のこと放って、どっか行ったりしないでね” ぽろぽろと零れるように聞いてきた言葉の数々が、頭の中を巡る。 頭は悪いくせに、そういうことだけは忘れない。忘れられなかった。 俺の想像なんて、軽く踏み越えるほどのつらさを、佐伯はずっと抱えてきたのだ。 どんな慰めを選んでも、俺の乏しい語彙じゃ薄っぺらくなってしまいそうで。 そもそも、慰めも、同情も、今は違う気がした。 だから俺は、余計なことは言わなかった。ただ強く抱きしめる。 逃がさないように、確かめるように。 その髪を、何度も、何度も、後ろからゆっくりと撫で続けた。 しばらくの沈黙のあと、佐伯はふっと緩めるみたいに息を吐いて。 そのまま、独り言のように、言葉を零した。「俺のせいだから」 あまりにも静かで、あまりにも即断的な言い方だった。「え?」「母さんが死んだのは、育児ノイローゼが原因だって親父が言ってた。……だから、母さんが自殺したのは、俺のせいだって思ってる。ずっと」 感情を削ぎ落とした声だった。 自分を責める言葉なのに、そこには怒りも悲しみもなくて。 ただ『そう決まっている事実』だと信じ切っている響きだけがあった。「そんな、」 否定の言葉は喉の奥で絡まって、うまく形にならない。「南緒の家族を見て、羨ましいって思った。お前がその性格に育った理由も納得した。帰ってきた時にあかりが灯ってるみたいに、明るくて、安心できる家だなって」 佐伯は、最後まで俺の方を見なかった。 顔を向けないまま話すのは、きっと俺の反応を見るのが怖いから。 拒絶される未来を、先に想像してしまっているからだ。「……もうこれ以上は、南緒に隠してることは無い。これで全部。今まで言わなかっ
先に風呂を済ませた佐伯のあと、俺もシャワーを浴び、少し火照った身体のまま廊下へ出た。 髪を拭きながら、何気なくリビングの前まで来て、ドアノブに手を掛けた――その時だった。「佐伯くん、本当にお盆にご実家に帰らなくてよかったの?」 母さんの声が、思ったよりもはっきりと耳に届いた。 その問いに、佐伯はすぐには答えなかった。 ほんの一瞬。だが確かに、言葉を選ぶための、深すぎる「空白」があった。「……海外で生まれたので、そういう習慣が無くて」 その言葉を聞いた瞬間、俺はドアノブからそっと手を離した。 今まで、どうしても聞けなかったこと。佐伯の、家族の話。 俺はその場に留まり、ドア一枚隔てた向こう側に、そっと耳を澄ませた。「まぁ、帰国子女なの?」「はい。七歳までフランスで過ごしました」 ――知らなかった。佐伯のことを、俺は分かっているつもりでいた。 普通に、俺と同じように、日本に生まれて日本で育ってきた人間なのだと、どこかで勝手に決めつけていた。 でも、それは全部、俺の都合のいい想像に過ぎなかったのだ。「ご両親はどんなお仕事をされてたの?」「父は、外資系の投資銀行に勤めていました。海外赴任が多くて……今も国外です」「お忙しいのね。お母さまは?」「……俺を産むまでは、コンサルティングと広報の仕事をしていました」 淡々と、履歴書を読み上げるような説明が続く。 事実だけが、綺麗に並べられていく。 思い出を語る時に混じるはずの、熱や色彩が、そこには一切存在しなかった。「男の子って、お母さんに似るって言うじゃない? きっとお綺麗な方なんでしょうね」 その言葉に、佐伯の返事は一拍遅れた。「……南緒さんはお母様似ですね。目元が特に」 質問を正面から受け取らず、鏡のように跳ね返して会話の主導権を奪う。 それは、佐伯が自分を守る時に使う、いつもの「完璧な接客」と同じだった。 佐伯が語った家族のことは、感情がすべて削ぎ落とされた、抜け殻のようだった。 自分の家族の話であるはずなのに、佐伯自身がそこにいない――そんな、絶望的なまでの心の距離を感じた。*** 二階の客間に二つ並べられた布団の間には、ほんのわずかな隙間。 佐伯は無言のままスマホを操作し、機械的な指の動きでアラームをセットした。 画面を伏せると、何
「先取り学習しすぎてさー。数学だけ、もう高校レベルになっちゃったんだよね」 小学生で、高校レベルの数学。 幼稚園の頃から、パズルや数字遊びを異様な集中力でこなしていたのは覚えている。なんとなく地頭がいいんだろうな、とは思っていた。でも、ここまでとは正直知らなかった。 俺が内心で軽くショックを受けていると、ダイニングの椅子に座っていた佐伯が、自然な動作でこちらに身を寄せ、プリントを覗き込んだ。「……加法定理じゃん」 そう前置きしてから、迷いのない口調で続ける。「sinαはγ分のb、cosαはγ分のa。だから、aはγcosαで……」 さらさらと式を追いながら説明していく佐伯の声は落ち着いていて、まるで授業でもしているかのようだった。 理緒も、口を挟まず黙って聞いている。 その様子を横目で見ながら、キッチンですし桶を洗っていた母さんが、意外そうに声を上げた。「あら、佐伯くんって数学得意なの? 大学が理数系なのかしら?」 視線が佐伯に向けられると、彼は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。 困ったような、照れたような微妙な笑みを浮かべて、静かに首を横に振って答えた。「いえ、三ツ橋の国際教養学部です」 ――その瞬間だった。 がちゃん、という派手な音がキッチンに響き、母さんの手からすし桶がシンクへと落ちる。「えーーっ!? 三ツ橋大学!?」 驚愕の声が上がるのと同時に、今度はダイニング側から甲高い叫び声が重なった。「くっそ頭いいトコじゃん! やばぁ!」 理緒が椅子から立ち上がりそうな勢いで身を乗り出し、目を輝かせて佐伯を見る。「えっ、東帝大の次に頭いい所でしょ!?」「うん。東帝も受かってたけど、自分の家から遠いから」 それからというもの、母さんに加えて理緒まで、すっかり佐伯に懐いてしまった。 目をきらきらさせて隣に張りつき、佐伯はさっきの続きを丁寧に教え始めた。 理緒の理解度に合わせて言葉を選び、確かめるように問いかける。 宿題が終わった頃、玄関のドアが開く音と共に大きな明るい声が響いた。「たっだいまぁ~♪」「あ、父さん帰ってきた!」 次の瞬間、理緒はスリッパの音も軽やかに玄関へと駆けていった。 リビングへやってきた父さんは、ネクタイを緩め、上機嫌そのものといった様子だった。 そして俺と佐伯を交互に見比べるなり、
湯呑みの緑茶を一口飲み、喉を整えてから言う。「いいえ。迷惑になるようなことは何も。むしろ南緒さんが居てくれると、店も明るくなりますから」 ……なにそれ。 隣でそんな風に語られると、たとえ営業スマイルだと分かっていても、心臓の鼓動が跳ねる。 チラ、と横目で見たが、佐伯は俺の方を見ないまま続けた。「初出勤の時から、素直で優しそうな子だと思っていました。……ですが今日、お母様にこうしてお会いして、納得がいきました。南緒さんのそういう素敵な部分は、お母様譲りなんですね」 こいつ、クッッッソ嘘つくじゃん! 初対面で俺に「Fラン」だの「脳みそ何グラム?」だの吐き捨て、二歳児扱いしたあの男はどこへ行ったんだ。 佐伯の完璧な「好青年」の仮面に、母さんは一気に頬を赤らめた。まるで二十歳若返ったような声が弾む。「やだ~、もう。佐伯くんみたいな男前にそんなこと言われると、お世辞でも――」「本音です」 被せ気味の即答。 どんだけ俺の母さんの懐に入り込むつもりだ。 今は思う壺だろうが、こいつが俺を冷凍庫に閉じ込めた過去を知ったら、母さんは速攻で不動明王にジョブチェンジするからな。 俺は心の中で毒づきながら、脂の乗った大トロを口に運んだ。「でも、この子、家を出るまで料理もしてないし不器用だし……本当にアイスなんて作れているのかしら?って、親としては不思議なのよ」 ぐさ。悪気ゼロの言葉が、正確に急所を突いてくる。「確かに」 理緒まで相槌を打つ始末だ。俺は無言で理緒の皿からサーモンを一貫奪い取った。「あーっ! それ俺の!」「……確かに、器用ではないと思います」 佐伯はあっさり同意した。おい、そこは否定しろよ。「けど、俺が思う南緒さんの良いところは、テクニックではなくて――」 その一言で、空気が変わった。 佐伯は一拍置き、ほんの一瞬だけ、隣の俺を横目で見た。 目が合った。その一瞬で、体温が跳ね上がる。 彼はすぐに母さんの方へ視線を戻し、静かに言葉を繋いだ。「……接客です。その点に関しては、他のスタッフより抜きんでたものがあると思っています」 母さんは箸を止め、理緒も口をもぐもぐさせたまま動きを止めた。「お客さまの赤ちゃんをあやして、お母様が少しでも息抜きして食べられるように配慮したり。この前は、ご年配のお客さまに、カウンターを出て隣でフレーバーの